由緒沿革

崇神天皇(人皇十代)十年、この地に大蛇が多く出没し農民を悩ましました。
天皇は「これは大国主神の荒御魂の荒ぶなり。よろしく祀るべし。」と仰せられ祀らしめられた。その後同天皇六十二年、丹波国の氷香戸辺の小児に「玉菨鎮石。出雲人祭、真種之甘美鏡。押羽振、甘美御神、底寶御寶主。山河之水泳御魂。静挂甘美御神、底寶御寶主。」(日本書紀第五巻祟神紀六十年条・出雲国風土記)というご神託があった。天皇はそれをお聞きになって、活目入彦命(垂仁天皇)を河内国支子に遣わし当社を祀らせ、美具久留御魂大神と御名を称えまつられた。この神託は「出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾神(龍神)でり、水泳御魂大神である」と美具久留御魂大神の御神体を明らかにされたのである。
当神社は歴代天皇からの崇敬厚く、文徳天皇の嘉祥三年(八五〇)には神階を従五位上に進められ(社記)、光孝天皇は河内大社の勅額を奉られた(文徳実録)。また延喜式には官幣に列せられ当国二の宮石川郡の総社とも称せられた(社記)。
平安朝の頃河原の左大臣源融公が社頭に奉幣された時、祭壇をかすめてほととぎすが鳴き、大宮人をして詠嘆措かしめなかったという(社記)。往昔の神域は霊異ただならぬものであったことを知るのである。
南北朝時代には南朝歴代のご信仰も厚く、また楠木氏は上水分社(建水分神社、千早赤阪村鎮座)と共に当神社を下水分社と称し氏神として信仰されたので、戦乱の間にも朝廷は、神社にしばしば参拝されたり、社殿を造営されたりして治世の安泰をお祈りになられた。
平安時代(一〇〇〇年頃)根来宗正東山という神宮寺が建てられ、隆盛にむかった。鎌倉時代末、鎌倉方が赤坂城を攻めたとき、西条城(喜志)と共に焼き払われたが、間もなく再建され天正の頃には十七坊に及び、香をたく煙が漂い、誦経の声が神山にこだまする神仏感応の霊地となっていた。
天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の根来攻めの兵火を浴び烏有に帰した。以後数十年間は復興されなかったが万治元年(一六五八)から復興が始まり同三年拝殿の造営を以って社頭はほぼ元通りの姿を取り戻した。しかし神宮寺は再び建つことはなかった。
明治に入って近郷村社を合祀し、病気平癒や縁結びの御神徳、またすべての生業の守護神として信仰を集め、今日に至っている。

平成の大事業として平成六年、氏子崇敬者の篤志により、本殿、拝殿・社務所の大改築、摂末社の修繕がなされ、同八年完成する。